「カウンセラー目指しているんでしょ?じゃあ、助けてよ。」
駅のホームで目の前の彼女にそう言われたのが依存関係の始まりだった。

依存的な恋をしてしまうことって、やっぱりある。
今思えは、あの時は若かった…。
共依存って、離れようとすると、相手に色んな事が起きて、
彼女の元へ強制送還されるような、そんな不思議なことが何度もおこる。

離れようとすると、見捨てたんじゃないかって、
「人一人助けられない。そんな人間がカウンセラーやってていいのか。」という、
勝手に持っていた謎な責任感と、
「自分がいなきゃ。助けなきゃ。」ってこれまた勝手に持っていた偽りの優しさが妨げる。

共依存の恋愛は、お互いに苦しく、
お互いに寂しく、孤独なのです。

だからお互いにそれを埋めようと必死で、
お互いに不器用な愛を表現し合っているのです。

今日は、この共依存について書いていこうかなって思います。

依存っていうと言葉のイメージが悪いですが、
平たくいうと、
「あの人がいなきゃ私は、生きていけない。」
「あの人には、私がいなきゃダメになっちゃう。」
とそう強く、そして本当にそうお互いに思っている状態です。

一方だけが相手に寄りかかって、あなたがいないとダメなの!

という状態とはちょっと違うのです。
でも、この共依存って気づきにくく、
お互いに傷ついてしまうことが多いのです。

私にはあなたしかいない。

恋は盲目とよく言ったものだなと思います。

恋をすると盲目になって、あの人しかいない!って、そう思います。

それが好きになるっていうことですよね。

 

だから、こういう思いって大切なんですが、

共依存となるとちょっとニュアンスが違くなってきます。

あなたがいないとダメなんです。文字通り。

そして、それを相手もつよくおもっています。

人は、誰かに必要とされたいのです。

そして、誰かに愛して欲しいのです。

愛してもらうという事は、一人でいる寂しさを癒してくれます。

 

一人でいる孤独や、私は必要とされないかもしれないという恐怖は、

時にどうしようもなく僕たちを苦しめます。

だから、共依存関係では、お互いにその穴を埋めてくれる相手を探し、

パートナーとなることが多くあります。

見捨てられる恐怖

お互いに関係が深まっていくと、

「もしかして、振られてしまうかもしれない。」

と、不安になることがあります。

 

なので、携帯をチェックしたり、過度に束縛をしたり、

時に自分を傷つけてまで相手の気を無意識的に引こうとしたり…。

 

こういった事が起きてきますが、これらの行動の根底には、

「見捨てられ不安」という不安があります。

それは、読んで字のごとく、見捨てられてしまうんじゃないかという、

恐怖感であり、不安です。

 

見捨てられる=愛されていない。=私は必要とされていない。

という方程式が出来上がり、とっても怖いのです。

人は先ほども書きましたが、誰かに必要とされたいのです。

誰かに愛されたり必要とされることって、

「ここで(この世界)で生きていていいんだよ。」

って感じる事でもありますし、

「私は生きていていいんだ。」って思える事もでもあります。

 

愛されている存在である。

 

ということは、私たちが自分自身を保つ上で、

とっても大切なことなのです。

 

愛に不器用な方は、この為、愛を過剰に求めてしまい、

どんな形であれその愛を受け取ろうと”気づかぬ”うちにしてしまいます。

愛を渇望している状態と言えるかもしれません。

 

すると、そこに不器用な愛を与えてくれる人が現れます。

救わなきゃという愛

そういう愛を渇望している人をみると、

ほっておけない人がいます。

精神的に落ち込んだり、気持が不安定な方が多かったりしますが、

やっぱりどこか魅力的なのです。

 

そして、そういう人をみると「私が助けなきゃ!」って、

気持ちがむくむくと湧いてくる方がいます。

それが愛に不器用な救う愛を持った人です。

 

最初は恋愛関係だったのに、

いつしか相手は私が助けなきゃ、力にならきゃ、支えなきゃ!

じゃないとあの人はダメになってしまう。

と強く思ってしまいます。

 

救うこと、力になるには、

救うべき人や、力になるべき人が必要です。

そして、力になったり支えたりするということは、

これまた自分が必要とされているということですから、

それが自分の存在理由にもなったりします。

 

「俺が、私が、いないと…。」

 

という気持ちで、なんでも身の回りの世話をしたり、

何から何までしてあげようとします。

それこそ身を粉にしてまで相手を救おうと、

力になろうと、支えになろうとします。

 

それは誰かに尽くすこと、

世話をすること、

してあげることでしか愛を伝える事しかできない、

不器用さからです。

 

そういった不器用さで愛を表現することでしか、

「私は必要とされている。」

「愛されている。」と実感できなかったのです。

 

救うべき人がいる。力になれる人がいる。

という事も一種の依存です。

これを読んでいるあなたもきっとお分かりかと思いますが、

誰かに必要とされること、頼られることは、

嬉しい気持ち以上のものが時にありますよね。

 

共依存の状態では、それがもっとずっと強いと思ってください。

共依存は、お互いに不器用な愛を表現している。

これまで説明したように、共依存とは、

お互いに不器用な愛を表現しているのです。

 

片方は、見捨てられるのが怖くて、

色んな事で相手の気を引き、愛を受け取ろうとします。

 

もう一方は、救うべき誰かを愛することで、

相手に尽くし、助けようと身を粉にしてまで、

愛を受け取ろうとします。

 

お互いに不器用なのです。

不器用すぎるのです。

 

そして、結局お互いに摩耗しあい、

精神的に参ってしまいます。

 

助けようと思えば思うほど、

結局相手は救えず。

より自分の足で立てなくなり、

あなたが必要になります。

でも、あなたは自分を責めます。

なぜなら人は救えないからです。

 

相手が離れていってしまうのがあまりにも怖いので、

あの手この手で気を引きますが、

与えられる愛を求めても、

結局はいつまでも満たされないことに気づきます。

 

そう、結局この不器用な愛は、

お互いにすり減って、傷ついて終わりを迎える事が多いのです。

救う愛は、信頼する愛へ。

人は本当の意味で人を救えません。

救えるのはその人自身だけです。

 

そして、力になることだけが愛ではありません。

信頼するということも愛です。

 

あなたがいなくても相手は大丈夫だ。

 

と学ぶことが大切です。

そして、どんなことが起きても、

相手の人生は相手の人生で、

自分の人生は自分の人生でだ。

と、境界線を引く事が大切です。

 

共依存の関係では、お互いにこの境界線があいまいになりがちなのです。

愛の渇望を潤すのは、自分の愛。

人からいくら愛を求めても、

どこか満たされず、いつもどこか不安な自分に気づきます。

 

それは、小さいころの両親との愛情関係が関係していることがありますから、

カウンセリングやセラピーを受けることで、

その関係性を学び直していったり、愛を十分に不器用ながらも受け取ってきたことに、

気づいていったり、

自分に気を向けてもらうことでしか愛を表現できなかったことを、

学び直すことが大切です。

 

そんなに愛を渇望しなくても、

あなたは愛される価値があるのです。

自分を傷つけなくても、

そんなに怖がらなくても、

愛されていいし、

愛される価値があるんですよ。

 

そのことに少しずつ気づいていくこと。

それがお互いに共依存を抜けていく為に必要なことだと、

僕はそう思っています。

 

不器用な愛がいつしか花開くことを祈って。

 

 

野川  仁
・元引きこもりの心理カウンセラー
・JCA カウンセリング・傾聴スクール 講師 
・(一社)日本心理カウンセリング協会 代表理事
現在は、都内のクリニックでカウンセリングも行っている。

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