ナラティブセラピーというセラピーで、
こんな考え方がある。
「問題が問題なのであって、人間が問題ではない。」
という考え方だ。
僕はこの考え方がちょっと好きだ。
僕たちは人間が問題と考えるけれど、
ナラティブセラピーでは、
問題を徹底的に外在化して捉える。
外在化とは例えばこんな感じだ。
「なんだかイライラして、
あの人とうまく話せない。」
という人がいるとする。
人間が問題だとすると、
イライラするその人が問題となる。
一方、問題が問題だとすると、
「イライラ」があの人との関係を邪魔しているとなる。
問題をこのようにその人から切り離して外に出すことを外在化とい
他にも例えば、
「うつ」がどのようにあなたを会社へ行くのを止めたの?
「悲しみ」がどのように二人の関係を遠ざけたの?
「依存」がどのように、
といったように、問題をその人から切り離して考えるのです。
僕はこの考え方がちょっと好きなのです。
僕たちは自分という全体が例えば怒っているとか、
うつであるとかそういったように考えがちですが、
それは一部であって、全部ではないのです。
でも、その一部に僕たちは意味をつけ、
物語をつけて行く。
「ほらやっぱりイライラする。」
「ほらやっぱりダメなんだ。」
「そういえば昔から怒りっぽかったな、、、。」
そんな出来事に対して意味と物語を繋げていく、
そうして人生の中心となる物語ができて行く。
「私は怒りっぽくて、
「私は怒りぽくてダメな人間なんだ。」
「私はすぐに人に攻撃的になり、
人を傷つけるんだ。」
そん人生を支配する物語を作っていく。
「やっぱりダメな私。」
「愛されない私。」
そんな人生の物語を作っていく。
でも、人生には他の物語もあるのだ。
確かに何かを達成できた自分。
何かを成し遂げようと挑戦した私。
誰かに確かに愛を受けた自分。
愛を探し求めた私。
そんな物語もあるのだ。
でも、そんな物語は「人生を支配する物語」
に影を潜めて、語られなくなり、
自分の記憶からも追放されて、
意味も物語も繋げられなくなっていく。
でも、僕たちの人生には色んな物語があるのだ。
僕たちは勝手に過去の出来事を拾い集めて、
物語を作るけれど、
僕たちの人生の中には、
キラキラと確かに輝く物語があるのだ。
それが読めないのは、
「問題」がそそのかしてくるからだ。
「寂しがり」がそそのかしてくるからだ。
「裁判官」がそそのかしてくるからだ。
でも、人生にはそんな問題たちに今もなお支配されていない、
大切な物語があるのだ。
「問題」にそそのかされちゃいけないよ。
「問題」に力を与えちゃいけないよ。
「問題」と距離を置こう。
「問題」を孤独にしてやろう。
相手が寂しいと言ってくるくらいに。
そしてもし泣きついてきたらこう言ってやろう。
「仲良くなってやってもいいよ。」って。
そういってやろう。
僕たちの人生には光がある。
僕たちの人生には、違う物語があるんだ。

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